「禍福はあざなえる縄の如し」
禍(わざわい)と福はより合わせた縄のようなものである。
禍福は表裏一体で、禍が転じて福となったり、福が禍の 元になったりするものであるというたとえ。
「人間万事塞翁が馬」
人生は何が幸せになるか、また何が不幸になるか判らない。
幸不幸のたびに喜んだり悲しんだりすることはないということ。
本当に人生はいいことがあったり悪いことがあったりの連続だ。
いいことがあって浮かれていると決まって心配事が訪れてくる。
悩んで悩んで人類で一番不幸じゃないかと思うくらい塞いでい ても、開き直った瞬間に急に好転の兆しが訪れて来たりする。
天の神様に正に空から見られているのじゃないかと思う時も しばしばだ。恐れ入ってしまう訳だ。
分かっているのについつい同じ事の繰り返しをやっている自分 がいる、嗚呼情なや!
知らず知らずにやっぱり何かを期待してしまうのが人間なのだ ろう。「いけないいけない!」と思う気持ちもあるのだが、邪心を
捨て切れない自分を持て余してしまう。
いい事と悪い事は、結局人生を終える時には半々なのだろう
と思う。
そんな人間たちの集合体が社会なのだから、公平な神様も いろいろと大変だと思う。不公平と思う時も多くあるけれど、
やっぱり長いスパンで考えれば半分半分の人生なのだろう。
「渡る世間は鬼ばかり」というドラマが高視聴率を取って、長寿 ドラマとなっているが、昨日の新聞に批評が書かれてあった。
周りが鬼ばかりで、これ以上の不幸さはないような救いのない 筋書きらしいが、それを毎週楽しみに見ている茶の間の側の人々
はおそらく、「この家に比べたら我が家はまだマシ」だと思いながらド ラマの上の不幸を「かわいそうだ!」と見ているのだろうと。
だとしたら、日本人の心の貧しさを象徴するような長寿番組だと 書かれてあった。
この批評自体はひとつの意見だろうが、橋田・石井コンビは一体 何を今の社会に訴えようとしているのだろうか。
人間の心の奥に棲む「残虐な鬼心」を敢えて赤裸々にする事に よって、「思いやり」の大切さを反面教師として諭しているのだろうか。
見る側に批評の心や、自分に照らし合わせて考えてみる気持ち がないとしたら、新聞評のようになってしまう。
つくづくドラマ(フィクション)の難しさを感じてしまうのだ。
カンヌ映画祭で先日絶賛された『ムーア監督』の『華氏911』の 作品の事も思い出しながら、エンターティメントに於ける「与える側」と
「与えられる側」の想像を越える思惑に非常な難しさを感じている。
自分の人生や自分の考えにも常に懐疑の念は免れ得ないが、 千変万化する自分の立場を甘受する強さと客観性はいつも持ち
続けていたいものである。
そして、自信を持って生きて行きたいと思っている。
半分半分の喜びと苦しみを受けとめながら・・・・・。
|